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トイレットペーパーの芯が、非常にラブリー。

小ネタ 2018/9/3
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一人暮らしをし始めたのは大学生の時で、狭いワンルームの部屋を手に入れて僕は自由になった。



もう誰も自分の生活に干渉してくることはない。家事は面倒だったが、自由の代償と思えば掃除や洗濯など屁でもなかった。



部屋は順調に汚くなっていって、穿き捨てたパンツと読みかけの漫画とカップ麺の容器が混沌のハーモニーを奏でていた。カップ麺は決まって、「豚キムチ」である。あの、一番美味しいやつだ。



部屋が汚くなることや自分が大学の授業に出なくなることはほとんど想定の範囲内だったが、ほどなくして想定の範囲を逸脱している事象に出会った。自分が、トイレットペーパーの芯を、集め始めたのだ。





なお、「集める」とはいっても、何もトイレットペーパーの芯集めに躍起になりそれを趣味にしている、というわけではない。色々な種類のトイレットペーパーを買ってきて、それを棚に陳列しているとかそういう筋金入りのコレクターの類いではない。



ただ単に、家のトイレでトイレットペーパーを使い切った際、最後に残った芯を、捨てずにトイレに保管しているというだけだ。一種類の、同じタイプの、芯である。それを、トイレの端に、奇麗に並べて保管している。



それを、4本、5本、6本と、並べているのだ。勿論、時間と共に芯は増えていき、10本、15本になっていく。その男は、トイレットペーパーの芯を、一向に捨てようとしない。



振り返ると僕は小さい頃から、同じものをたくさん収拾する癖があった。同じ種類の人形を10体20体とそろえて一人でグフグフするのである。その性癖が、一人暮らしの薄暗い便所の中で、満を持して目を覚ましてしまったのか。



これまで自分が芯を集めなかったのは、恐らく実家では母親がトイレの芯を熱心に捨てていたからだろう。一人暮らしをすることで、ついに自分の新たな一面を知るに至った。こんな恐ろしい輩が自分の中に潜んでいたとは。一人暮らしとは、自分という人間との、二人暮らしなのか。





増え過ぎたトイレットペーパーの芯は、やがて、狭いトイレの敷地を露骨に侵害するようになっていった。せいぜい直径数センチの円ですら、集まるとバカにならないサイズになっていく。塵も積もれば何とやらである。



数が増え過ぎて収拾がつかなくなると、この男は次に何をし始めるのか。男はそれでも芯を捨てることはなく、トイレに並べられたいくつかの芯を集め、それらをまとめて、一つの「濃密な芯」にし始めた。



皆さんは、複数のトイレットペーパーの芯を、一つの濃密な芯にしたことはあるだろうか? ある、という人はあまりいないだろう。そんなことをしている人間は、見たことがない。





というか、「濃密な芯」という表現でちゃんと、僕の生み出している濃密な芯がイメージできているのだろうか。トイレットペーパーの芯というのは、全て同じサイズなので、そのままだとひとまとめにするのは難しい。



そこで、一方のトイレットペーパーの芯を、断面の面積が元の85%くらいのサイズになる程度に、少しだけ潰し、そして奇麗な円を保っているトイレットペーパーの芯の中にスルスルと入れるのである。



こうして、2つの芯は、1本の芯になったかのように見える。しかし、中に入っている芯は少し潰されている為、中をのぞくと見栄えが悪い。そこで、内側の芯をちゃんと、手で広げてあげましょう。



もちろん、中の芯が完全に元通りの円柱になることはないが、本気で広げてあげれば、「外側の芯と同化したと言えなくもない状態」までは持っていくことが出来る。こうして、2つの芯は完全にユナイトされるのだ。「ユナイテッド芯」の完成である。
トイレットペーパー 芯
さて、内側の芯はちゃんと広げてあげることでほとんど円柱に近い状態になったので、その内側には、ほとんど円形と言える空間が出現する。そこで、また新たなトイレットペーパーの芯を断面積が元の83%くらいになるまで潰し、そこにスルスルと入れ、それをまた中で広げてあげよう。



これを、何度も何度も、繰り返すのだ。芯は、本気を出せば1本の芯の中に7本から8本は入る。最後は中身がパンッパンになった、非常に濃密な、著しく堅い、極めて尊大な、類い稀なる、物々しい存在感を持った恐るべし円柱が出来上がるのだ。もうお分かりだろう。これこそが、「濃密な芯」の正体だ。





さて、この「濃密な芯」を完成させたその瞬間、全身が溶けるほどの満足感や高揚感を得ることができるのであり、僕はこれをもう、「合法ドラッグ」と呼んでも良いのではないかと思っている。



この気持ち良さ。この尋常ではない興奮。皆さんにも、是非味わっていただきたい。芯をまとめるだけ。たったそれだけで、おびただしい量の快楽物質が脳内に分泌されるのである。





僕はトイレに並べられたトイレットペーパーの芯を集めて、排泄をしながらコツコツと濃密な芯の創作にとりかかった。そしてついには「濃密な芯」がいくつも出来上がったのだ。芯ではなく、「濃密な芯」が、2本、3本と増えていく。



しかし、濃密な芯は、もうそれ以上、まとめることができないのである。つまり濃密な芯がトイレの中で増え過ぎてしまい、トイレの敷地を露骨に侵害してしまった時。その時は、いよいよ世界の終わりである。



「濃密な芯」か「自分」か。どちらかが、このトイレの地を去らねばならない。母なるトイレの大地は、無制限に広がっているわけではないのだ。限りある面積を、同じパイを、芯と人間は食い合っているんだ。



僕は遠い将来必ず訪れるこのエックスデイを想像し、怖くなった。しかし結果的に、この心配は杞憂に終わった。濃密な芯がトイレの敷地を埋め尽くす前に、大学生活が終わった。



母なるトイレの大地だけではない。4年間で一人の人間がなし得る排泄の回数にもまた、限界があったのだ。





大学が終わり社会人になって会社の寮に住んでからも、その後何度か引っ越しても、自分の性癖が変わることはなかった。隙あらば芯を集めたし、芯を、濃密にした。



やがて僕は、一回の大便時に自分が使用するトイレットペーパーの量が、一般人のそれを遥かに超えていることに気がついた。友人が、「一回の大便で、2、3回くらいトイレットペーパーを切り取って拭いたらそれで充分だろう」と言っていた。



しかし、自分はといえば、大便をしてからペーパーを入念に使い、その上でウォシュレットを使ってさらにペーパーを入念に使っている。一般人の3倍近くのペーパーを使っていたのだ。「エコ」という概念を無視し、一心不乱に、「芯」に向かって爆走していたのである。



かつては、大便の処理をするためにトイレットペーパーを使っていたわけだが、いつからかトイレットペーパーの芯を集めるために、そのためにトイレットペーパーを使っていたのかもしれない。



いや、何ならもう、「トイレットペーパーの芯を集めるために大便をしている」可能性すらある。トイレという環境において大便はもはや目的ではなく、芯を集めるための「方法」に、ある種の「手段」に成り下がっている恐れがある。ツールとしての大便。それほどまでに芯を集めたい。ああ、集めたい。もう認めよう。愛している。



僕はトイレットペーパーの芯を、愛しているのだ。芯の無機質な外見も、大人しい内面も。彼の全てを、愛している。



芯をいっぱい集めたい。集めて並べたい。並べて愛でたい。愛でてから触ってスリスリしたい。スリスリしてから一つにまとめたい。まとめて一本の濃密な芯にしたい。すると気持ちが良い。



そして、濃密な芯を、並べたい。それを並べて愛でたい。愛でてから触ってスリスリして、愛し合いたい。スリスリしてもスリスリしても、スリスリし足りない。



スリスリ、スリスリ、スリ、スリリ。スリスリ、スリリ、スリリリリリ。ぶちゅぶちゅぶっちゅ、チュッチュッチュ。



チュチュチュ、チュチュチュ、ブッチュッチュ。スリスリ、チュッチュ、スリチュチュチュ。ブッチュ、ブッチュ、ブチュチュチュチュ。スリスリブッチュ、スリブッチュ。スリブチュ、スリブチュ、スリブチュチュ。







あ、そうだ。そもそもこの話を書こうと思ったのは、先日、おぞましい事件が起こったからである。うちの家にカードゲームをやりにきた友人が、僕がトイレに並べていたトイレットペーパーの芯を、グチャグチャにして捨てた。勝手に捨てた。



その上で、「捨てといたで」と言ったのだ。良いことをしたと言わんばかりの表情で言ったのである。



これは僕にしてみれば、人の家にあがって、棚に飾ってあるガンダムのプラモデルを確認した後、それをバラバラに分解してからごっそりゴミ箱に入れたのとほとんど変わらない。その上で、「捨てといたで」と言ったのだ。これと同じだ。



更に例えるのであれば、人の家にあがり、ペットとして飼育されていた動物を鈍器のようなもので撲殺し、その上で「かたしといたで」と言ったのだ。これだ。これに等しいぞ。優しい笑顔で言ったのだ。私は親切だといわんばかりの表情で言ったのだ。





「サイコパス」と呼ばせていただこう。彼のことは今後、サイコパスと呼ぶことにする。友人の大切にしている物を捨ててから、悲しんでいる友人を見て「良いことをした」と悦に入る人間は、サイコパスである。





しかし僕は彼に対し、「お、おお」としか言えなかった。トイレットペーパーの芯を集めているとは言えなかった。恥ずかしかったのである。





今さらではあるが、トイレットペーパーの芯は冷静に考えて「ゴミ」なのであり、僕がそれをどう思っていようが、それは、「ゴミ」なのだ。これは認めざるを得ない事実。



捨ててあげた場合には、ドヤ顔をしてしかるべき代物だし、集めている人間は、気持ち悪い。



その意味で、トイレットペーパーの芯というのは、常にリスクに晒されているのだ。いつ人間に捨てられてしまうか分からない。芯を捨てる知人。親切な人間全てが、殺芯鬼である。恐ろしい。ああ恐ろしい。



しかし、そこに困難があるからこそ、それを乗り越えるからこそ、愛は深まるのだ。僕はその日からまた芯集めをスタートした。ゼロからのスタート。僕らは何度でもやり直せる。



今朝、3本目が手に入りました。
企画・編集:プレスラボ
執筆:熊谷真士
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